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娘が3歳になりました。

 

松本です。

娘が3歳になりました。

娘が3歳になりました。

特に変わったことはありません。

本人が言い出した「さんさいになったら、トイレでうんちする」もまだ達成されていませんし、僕自身、成長したなぁと思うものの、まだまだ可愛い幼児という印象です。

 

本人の中では「何かが出来た」という感動が代わる代わるやってきて、それの感動の中で簡単な感動は忘れ去られていき、もはや日常のちょっとしたことは「めんどくさい」と逆に自分でやるのを嫌がる段階に入ってきました。

着替え、歯磨き、おまるでトイレ等、とりあえず遊びを優先にして、あとであとでいやだいやだの繰り返しです。

 

まぁ、可愛いもんです。

娘の成長を見て、自分に還る

娘の成長を見守っていると、ふとしたときに、自分の人生の終わりについて考えることがあります。

いずれは死ぬのかぁという気持ちと、永遠はつらいもんねという気持ちが半々、あるいは、6:4ぐらいですかね。

 

自分もいつのまにか33歳になっていました。自分が5歳の時の父の年齢です。

そう考えると、人生はまだまだ長いし、今までに体感したことのない、とんでもない素晴らしい体験も待ってるかもしれません。いや、待っていてくれなければ困ります。

ただ、5歳からの28年と、今からの28年はもちろん速度が全く違うことは簡単に予想できます。何かを考えること、こだわること、やり通すことでそのスピードをできるだけ緩やかにすることが生きるということなのかと思います。

成長する側から、見守る側、そしてその先に

つい最近までは自分が成長するという立場でした。精神的にはこれからまだまだ成長しなければならない部分はあるものの、肉体的にはどんどん衰えていくでしょう。

これからは成長を見守る側に立ったんだなと、ふと最近、強く思いました。

そして20年もすれば、さらにもう少し遠くに立ち、成長する側、成長を見守る側、それを見守る側になるのでしょう。

なんだか想像がつきませんが、それはきっと間違いないことです。

ブログを書く行為は自分の考えをまとめる行為、キーボードを叩く行為、それだけのことなので、特に何の感傷もないつもりですが、書き終えてしまえば、またなんとも言えない感情になるんだと思います。

戻りたい時間はない

娘が産まれてから、娘の存在をキャンセルしてまで戻りたいと思った時間は一切ありません。

どの時代に戻っても、娘がいないなら、そんなものに意味はないと思います。

次女が産まれて、その思いは強くなる一方です。

だったら、もう、もちろんのこと、頑張るしかないのです。

 

そんなことを思った自分の誕生日、娘の誕生日でした。