松本です。
最近の娘との会話です。
(娘が歌に合わせて踊っているのを見て)僕「おー、上手だねー」娘「ほいくえんでおしえてもらったー」僕「へー、誰先生に?」娘「やまだせんせいとーたなかせんせいとーマサコとー」僕「マサコ!?」
許すのは難しい
嫌な事件が続いています。イジメという名の暴行事件で若い子達が亡くなるのは心が痛むもんです。そんな中で、子供を持つ身として、遺族の方々の気持ちを考えると、許すということは非常に難しいとつくづく思います。
こういう事件や事故の終着点は、なぜか「許す」になることが多いと思うんですよ。やっと許すことができたから受け入れられた、まだ許せないから事件は終わりじゃない、とか。もちろん、時の流れと許す気持ちはある程度は比例しているのはわかるんです。
でも、僕は許さないという決着があってもいいと思うんです。つまり、事件を受け入れることはできた。前を向いて生きていこうと思う。被害者のことは一生許さないし、恨み続ける。こういう終わりがあってもいいんじゃないかと。本人の気持ちはその人それぞれのものだから、許すか許さないかに良い悪いはないですよ。周りの接し方というか。
何か、周りから見ると「許した=吹っ切れた」という風に考えることが多いと思いませんか。まだ許してないと聞くと、吹っ切れてないのかなって。でも、許さないという終わり方も全然後ろ向きな解決ではないと思うんですよ。
さだまさしの「償い」
さだまさしの「償い」という歌をご存知でしょうか。歌詞を引用するわけにはいかないので「さだまさし 償い 歌詞」でググって頂くとして、簡単に説明しますと、職場の同僚が全く遊びに金を使わずセコい生活してるなって揶揄してたら、実は交通事故で人を轢いてしまって、その償いのために毎月お金を送金しているという歌です。
僕がこの歌を知ったのは、いわゆる「償い説諭」の話を聞いたからです。これまた少し説明しますと、ある裁判での話です。集団暴行事件の犯人達が反省していますとは言ったものの、正当防衛だったと主張していることに対して、裁判官が「君達はさだまさしの償いという歌を知っているか」という風に説諭したという話です。
つまり、この曲を聴いて本当に償うということはどういうことか知って、少しは償いの気持ちを持ちなさい、という風に言ったんですね。ちなみに、この話を聞いてさだまさし本人は非常に迷惑だと。悪人を諭すために作った曲じゃないと怒っていたそうです。
僕も、そう思います。とても良い曲には違いないんですが、この曲を聴いただけで反省するヤツは少しアルコール度数の高い酒を飲んだらきっと忘れてしまいます。また、償いという曲は加害者側(正確に言うと、加害者の友人)の目線で歌われますが、さだまさしは被害者側の話を聞いて曲を作ったそうですから、元々のスタートが違うというのもあるかもしれません。
僕はこの説諭の話よりも、さだまさしがこの曲に言及したときに引用した山本周五郎の言葉にすごく心を打たれました。
「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない―ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしていないのだ」
つまり、少し許すなんていう言葉はなく、許すか許さないかしかない。逆に言うと、だから許すことは難しい、とも受け取れます。
改めて、許すとは
非常に難しいことだと思いますね。全てを受け入れるわけですから。でもだからと言って、許すことを諦める必要はないし、許せないことを気に病む必要もないと思います。それが結果であって、一つの結論です。周りがとやかく言うことではないはずです。
僕は今までの人生で絶対に許せないことにはまだ巡りあっていません。少し、何かあるかなと思って考えても、何も浮かばないということは、ないということでしょう。性格も多少関係しているでしょうが、幸運なことだと思います。
今はこう考えていますが、本当に許せないことに出会ったとき、同じようなことを言えるかはわかりません。その時にもう一度、償いを聴いてみたいですね。